by atsushi_yudono
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マノエル・ド・オリヴェイラ監督追悼特集が2月3日までユーロスペースで上映されています。 http://jc3.jp/oliveira/
一人でも多くの方にオリヴェイラ映画の驚異と奇跡に出合ってほしいと思い、20年以上前に『神曲』と『アブラハム渓谷』の驚異と奇跡に出合った直後に書き綴った文章を再録します。 『アブラハム渓谷』 ――オリヴェイラはひとを愚鈍へと誘惑する 『アブラハム渓谷』が封切られた日に見たオリヴェイラの『神曲』は、衝撃であった。黎明の光のなかに立つ建造物がやや遠くから映し出され、ベートーベンの《悲愴》が流れだし、濃い青の文字が画面に浮かび上がっては消えていく。「精神を病みたる人の家」という表札が、映された後、思いもかけない大胆不敵さでアダムとイブの物語が、映画になってしまう。この「家」には、預言者、哲学者、ラスコリーニコフ、ソーニャ、アリョーシャ、キリスト、アダム、イブ、ユダヤ人とおぼしき人々が集い、聖書やドストエフスキー、ニーチェのテクストが散りばめられ、時に、その中の場面が再現される。恐るべきものは、ひとを愚鈍さへと導く。この映画を見終わった後、呆気にとられた私は、暗闇から抜け出て、時計を見て、階段を下り、道に出て、歩き始めたのだが、どこへ向かうのか判然としない。お金はある、時間もある。決断は下されている。だが、頭の中で、決断を下すべく、色々な計算を繰り返してしまう。重大な決断は決して下されることはない。決断は、あとから、決断に生まれ変わっていく。ただ、その生まれ変わりには、しばしの時間を要する。その時間は、死体を前にしてうろたえ、それにまとわりつく悲しみを引き延ばすことにも似て、ひとを聡明さから引き離し、愚かにしてしまう。歩きだした私は、近くの書店に入って書棚を見回したあと、店を出て、『神曲』で人々がやったようにふと空を愚かしく見上げてみる。そこには、白いくもりぞらが雨を今にも降らせそうに、茫漠として広がっているだけだ。ようやく、どこに向かうのかが明瞭になる。そう、もう一度、『神曲』を見なければならない。いや、そうではない、私はもう一度『神曲』を見てしまった。 人間というものは何でもないわかりきったことを疑問にしてその葛藤にまきこまれてどうにもならなくなってゆくのだ。いうまでもなくそれは愚の骨頂なのであるが、この愚かしさそのものが、これまでそんなものがあることを夢にも思いえなかったある領域をわれわれに開放するのだ。愚昧はいいかえれば好奇心である。好奇心は神がわれわれ人間の精神に植えつけたもので、神もまた、おそらくは、自分自身を知らんと欲して、人間をつくり、人間をとおしておのが好奇心を満たそうとするのだろう。 鈴木大拙 オリヴェイラの『アブラハム渓谷』もまた、ひとを愚鈍さへと誘惑しつづける。そのことは、この映画のプログラムであの金井美恵子が「『アブラハム渓谷』がひきおこす戸惑いに、私はまだ答えを見つけてはいない。」という文で文章を締めくくっているのを見ればさらに明らかになるだろう。『アブラハム渓谷』は、ポルトガルを舞台にエマの生涯を描いている。ほとんど全てのシーンがフィクス・ショットで撮影され、キャメラがパンすることは全くなく、時おりキャメラが後退し、横移動する。全てのシーンは、身震いが起きるほどに美しい。エマを演じる二人の女優、レオノール・シルヴェイラもセシル・サンス・デ・アルバも美しい。エマが、足の悪い女性であるという設定も、恐ろしいほどに魅力的だ。そして、この映画に登場する視線はひとを誘惑し、幻惑する。一つに一つのフィクス・ショットが、視線によって、繋がれていくとき、その視線はあからさまで時には官能性を帯びているにもかかわらず、オリヴェイラはそこにいっさいのメロドラマとは異質なものを作り上げてしまう。エマと後に彼女と結婚する医師カルロスとの初めての出会いのシーンにおいて、視線はカルロスの不在とともに、何らかのドラマを生み出してもよいはずだ。また、叔母の葬式でカルロスと「目の覚めるような」美人になったエマが再会を遂げるシーンは、いかにもメロドラマ的な主題を抱えているはずだ。だが、そこには、とてもつもない映画的興奮があるのみなのだ。 視線は、何かに向けられており、その対象が次のカットで映し出される。オリヴェイラにおいては、両者は補完的な関係にはない。両者ともが互いに、完璧であり、お互いにとめどない誘惑をしはじめ、謎を投げかけ合い、からみあい、ときには離れ、再び接近し合う。それは、きわめてエロティックな出来事である。緑に輝く水面を持つ河にモーターボートの航跡が白く細く伸びていく。そして、それを葡萄畑で働く二人の男が眺めている。あるいは、カルロスとエマと彼らの娘二人が、無表情に花火を見ている。そのような視線によって結ばれたシーンがこの上もなく素晴らしい。なぜ、そのようなことが起きてしまうのだろう。ナレーションが、物語を先取りしているからなのか。心理的なものが、排されているからなのだろうか。ひとは、またも愚鈍になる。 その愚鈍さに対して、オリヴェイラも世界をこのうえもない愚鈍さで視線を捉え続けることで、想像を超えた聡明さに到達したと思わせる素晴らしい女性を登場させている。それは、洗濯女のリティニヤである。彼女はエマの生家に仕え、エマが死ぬまで彼女のそばにいて、エマが生涯、心の支えにしていた女性である。彼女は、耳が聞こえず、喋ることもできない。彼女は「終生、男を知らずに過ごすと」決め、この世界を見ることだけによって理解する。彼女には全てのことがわかっているということを、まわりの人々も了解している。彼女は言葉を知っているのだろうか。リティニヤは、まさに想像を超えた叡智を持って映画に登場し、黙々とただ洗濯をし、あらゆるものにその視線をむける。この映画におけるもう一つの光源は、彼女なのではないかと思わせる。精神の高みに到達しようとするのだが、その望みがかなわないエマと無限の叡智をそなえてただ沈黙するリティニヤが、別れの挨拶をするシーンは、素晴らしい。エマは黄色いバラを画面の外に出て取ってきて、リティニヤに渡す。そして、車で去っていく。エマの乗った黒い車が去っていくのをリティニヤは見送り、車が見えなくなると、ふと空を見上げる。そこには、鐘楼の十字架が白いくもりぞらを背景にしてある。愚鈍さと限りのない聡明さが遭遇する瞬間だ。 去っていったエマは、それから間もなくその生を終える。終えるというよりは、ふと、この世から自らの生を去りゆかせた、といったほうがよいだろう。この映画には、あらゆるものの絶え間なく去っていく時間の跡のようなものが、かすかに残されている。去っていく車も、去っていく人々もゆっくりと自らの身を解き放ちながら去っていく。エマが桟橋を進んでいき、腐った板を踏み抜いて、河の水面に落下していきながら、その生を何処かへと去らせるとき、われわれが感じるのは、落下することの、去っていくことの果てしない美と自由である。エマがいなくなったあとも、穏やかにその表情を変えていく水面はわれわれの前に残されて、いつまでも揺れ動いている。われわれに残されているのは、エマのような落下を待望しつつ、リティニヤのような視線でそれを見ることだけだ。 (1994年筆) 私は通うことはできなさそうですが、みなさん、劇場で会いましょう。
by atsushi_yudono
| 2016-01-28 21:27
| 映画
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